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日本の陪審制

日本の陪審制
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    日本の陪審制

    日本の陪審制
    日本に陪審制が紹介されたのは幕末から明治初年にかけてであり、当初"jury"の訳語としては「立会ノモノ」(福沢諭吉『西洋事情』1866年)、「断士」・「誓士」(津田真道『泰西国法論』1868年)、「陪坐聴審」(柳河春三訳『知環啓蒙』1864年)、「陪審(たちあひ)」(中村正直『共和政治』1873年)などが用いられていた。
    ボアソナードが刑法草案・治罪法草案に「陪審」を用いたことなどから「陪審(ばいしん)」が定着した。
    明治憲法では陪審制は採用されなかったが、1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)までの間、後述のとおり陪審法[183]の下に刑事事件で陪審制が行われた。
    1943年(昭和18年)以来、同法は施行停止されている。
    また、戦後のアメリカ統治下であった沖縄県でも、1963年(昭和38年)から1972年(昭和47年)までの間、アメリカ民政府裁判所において、陪審制が実施されていた。
     
    昭和初期の陪審制
    詳細は「陪審法」を参照
     
    沿革
    明治憲法制定に当たって日本が参照したプロイセン王国法には陪審制の規定があり、当初は日本でも陪審制の憲法での明文化が議論されていたが、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らの海外使節団は、帰国後の報告書(1871年)で、陪審制を日本で実施することは難しく、かつ「不用」であるとした。
    結果的に、明治憲法では陪審制は採用されなかった。
    1909年(明治42年)の第26回帝国議会において、立憲政友会議員から「陪審制度設立ニ関スル建議案」が提出され、衆議院を通過したが、このときは陪審制は成立を見なかった。
    その後、大正デモクラシー運動が高揚する中、1918年(大正7年)に原敬内閣が成立すると、原は陪審制度導入に着手し、司法省に置かれた陪審法調査委員会において法案が起草された。
    しかし、枢密院は、裁判官の資格を持たない者の裁判関与を認める陪審制は明治憲法24条に違反するなどと主張して、陪審の評決が裁判官を拘束しないこととするなどの大幅な修正を求めた。
    結局、原内閣を継いだ高橋是清内閣がこれらの修正を受け入れ、1923年(大正12年)の第46回帝国議会において陪審法(大正12年4月18日法律第50号。以下条数のみを記載する)が成立し、1928年(昭和3年)10月1日から施行された。


    対象事件

    対象事件
    法定刑が死刑又は無期懲役・無期禁錮に当たる刑事事件については原則として陪審の評議に付すこととされ(2条、法定陪審事件)、長期3年を超える有期懲役・禁錮に当たる事件で、地方裁判所の管轄に属するものについては、被告人が請求したときには陪審の評議に付すこととされた(3条、請求陪審事件)。
    この請求陪審は、日本独自の制度であった。
    もっとも、被告人が公判又は公判準備において公訴事実を認めた場合は、陪審の評議に付することはできないとされた(7条)。
    また、被告人は、法定陪審事件であっても陪審を辞退することができ、請求陪審事件でいったん陪審を請求した後でも検察官の陳述の前であれば請求を取り下げることができた(6条)。
    なお、法定陪審事件・請求陪審事件の要件を具備する場合でも、(1)大審院の特別権限に属する罪、(2)皇室に対する罪、内乱に関する罪、外患に関する罪、国交に関する罪、騒擾の罪、(3)治安維持法の罪、(4)軍機保護法、陸軍刑法又は海軍刑法の罪その他軍機に関し犯した罪、(5)法令によって行う公選に関し犯した罪については、陪審裁判の対象としないこととされた(4条、陪審不適事件)。
     
    陪審員
    陪審員は12人で(29条)、陪審員の資格としては、30歳以上の男子で、直接国税3円以上を納めており、読み書きができるなどの要件を満たしていることが必要であった(12条)。


    陪審裁判の手続
    陪審裁判の手続
    陪審事件については、公判前に公判準備期日の手続が行われ(35条)、被告人を尋問した上(42条)、証人尋問等の証拠調べの決定が行われた(43条)。
    この時点で被告人が事実に間違いない旨陳述すれば、陪審は中止され、通常の審理に移行した(51条、7条)。
    公判期日には陪審員候補者名簿から抽選で選ばれた36人の陪審員を呼び出した(27条、57条)。
    その中から検察官と被告人は理由なく忌避することができ(64条、65条4項)、忌避されなかった者の中から12人が陪審員となった(67条)。
    その後、公判手続が行われ、裁判長による陪審員の心得の諭告(ゆこく)、陪審員の宣誓(69条)、検察官による被告事件の陳述、被告人尋問、証拠調べ、論告・弁論(76条)、裁判長の陪審に対する説示、犯罪構成事実の有無についての問い(77条)と進行した。
    陪審は、裁判長から「問書」を受け取ると、評議室に入り(81条、82条)、評議の上、「然り」又は「然らず」との答申をすることとされた(88条)。
    犯罪構成事実を肯定するには陪審員の過半数の意見によることが必要であった(91条)。
    評議が終わるまでは、裁判長の許可がなければ評議室から出たり他人と話をしたりすることができず、公判が数日にまたがる場合は裁判所に設置された陪審員宿舎に宿泊しなければならなかった(83条、84条)。
    裁判所は、陪審の有罪の答申を採択する場合には、情状に関する事実の尋問・証拠調べ[187]、第2次の論告・弁論(96条)を経た上、法令を適用して有罪の言渡しをし(97条2項)、無罪の答申を採択する場合には無罪の言渡しをする(同条3項)。
    しかし、裁判所は、陪審の答申を不当と認めるときは、他の陪審の評議に付すること(陪審の更新)ができた(95条)。
    陪審の答申を採択して事実の判断をした判決に対しては、控訴をすることはできなかった(101条)。
    なお、大審院への上告はできた(102条)。
       

    陪審制の停止
    陪審制の停止
    多額の陪審費用が被告人の負担とされることが多かったこと[188]、陪審を選択した場合は控訴によって事実認定を争うことはできなかったことなどから、被告人が法定陪審事件で陪審を辞退したり、請求陪審事件でいったん陪審を請求しても請求を取り下げる例が多かった。
    裁判官が陪審員の答申に拘束されないこと(陪審の更新)も、陪審制の意義を骨抜きにするものであった。
    1928年(昭和3年)から1942年(昭和17年)までの間に、法定陪審事件2万5097件のうち、実際に陪審に付されたのは448件、請求陪審事件で請求があった43件のうち、実際に陪審に付されたのは12件であった[189]。
    1941年(昭和16年)と1942年(昭和17年)には、陪審審理は1件ずつしか行われなかった[190]。
    また、第2次世界大戦が激化するにつれ、市町村では徴兵業務の負担が重くなり、陪審員名簿の作成が難しくなってきたことから、市町村から陪審制停止の要望が出された[191]。
    こうして、1943年(昭和18年)4月1日に「陪審法ノ停止ニ関スル法律」[192]によって陪審制が停止されることになった。
    同法は附則3項において「今次ノ戦争終了後再施行スル」と規定していたが、再施行されないまま今日に至っている。
    この制度によって484件が陪審に付され(うち24件は陪審の更新によるもので、実質事件数は460件)、うち81件に無罪判決が出た[193]。
     
    復活論と裁判員制度
    終戦後、占領軍は日本における陪審制の復活を強くは主張せず[194]、1947年(昭和22年)4月16日公布の裁判所法(同年5月3日施行)では、別に法律で刑事事件の陪審制を設けることを妨げないと規定されるにとどまった(同法3条3項)[195]。
    1999年(平成11年)7月に設置された司法制度改革審議会で国民の司法参加が取り上げられることとなり、陪審制に関する議論が急浮上したが、同審議会の最終意見書で、職業裁判官と市民が共に評議・評決を行う、参審制に近い裁判員制度の採用が決まった[196]。

    逆援助
    アメリカ統治下にあった沖縄県での陪審制
    当時の沖縄県では、高等弁務官を長とするアメリカ民政府と、その下に置かれた琉球政府があった。
    1963年3月8日、「アメリカ民政府刑事裁判所」(1958年7月21日布告第8号)及び「刑法並びに訴訟手続法典」(1955年3月16日布令第144号)が改正され、アメリカ民政府裁判所における刑事裁判について、大陪審と小陪審が導入された。
    また、1964年5月21日、「アメリカ民政府民事裁判所」(1958年7月21日布告第9号)が改正され、アメリカ民政府裁判所における民事裁判について陪審制が導入された。
    以後、刑事・民事の陪審制が1972年の施政権返還まで行われた。
    これは、在住のアメリカ人やアメリカ人弁護士からの陪審裁判への要求があったためであるとされる。
    もっとも、純粋にアメリカ人だけが関与する制度ではなく、(1)陪審員の資格としてはアメリカ国籍を要求せず、単に「三月間琉球列島内に居住した者」とされていたことから、琉球住民を含め居住者の全てが陪審員として参加することができた(ただし英語の読み書きのできない者は除かれた)。
    また、(2)刑事・民事事件ともに、当事者がアメリカ人の事件に限定せず、「高等弁務官が合衆国の安全、財産または利害に影響を及ぼすと認める(特に)重大な事件」についてはアメリカ民政府裁判所の裁判権が及んでいたことから、居住の者が当事者の事件も陪審による審理を受けることができた。
    制度の概要は次のとおりである。
    大陪審
    アメリカ民政府高等裁判所において、重罪(死刑又は1年を超える懲役に当たる罪)については大陪審による正式起訴(インダイトメント)を受ける権利が保障された。
    被疑者が権利を放棄した場合は、検察官による簡易起訴が行われた。
    大陪審は6名以上9名以下で構成された。
    刑事(小)陪審
    アメリカ民政府高等裁判所において、微罪以外のすべての犯罪について小陪審による裁判を受ける権利が保障された。
    被告人が罪状認否手続で無罪答弁等をした場合は原則として陪審審理が行われるが、被告人が権利を放棄した場合は裁判官による審理が行われた。
    刑事・民事とも小陪審は12名で構成された(これに加え予備員も選任された)。
    評決は有罪か否かの一般評決であり、全員一致であることを要した。
    無罪評決に対しては二重の危険の禁止から上訴できず、有罪評決に対しては、手続的瑕疵や法律違反についての上訴が許されていた。
    民事陪審
    民事陪審は、アメリカ民政府民事裁判所において行われた。
    この制度により1963年から1972年までの間に行われた陪審裁判は、刑事・民事合わせておよそ10件程度と推定されている(この間の全事件数は103件(刑事89件、民事14件)であった)。
    逆援助的な制度の確立が必須である。


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