陪審制

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    陪審制

    陪審制
    陪審制(ばいしんせい、英Jury system)とは、一般市民から無作為で選ばれた陪審員(ばいしんいん)が、刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加し、裁判官の加わらない評議によって事実認定と法の適用を行う司法制度である。
    陪審員の人数は6 - 12名である場合が多く、その合議体を「陪審」という。
    陪審は、刑事事件では原則として被告人の有罪・無罪について、民事事件では被告の責任の有無や損害賠償額等について判断する。
    現在は主に、米国や英国をはじめとするコモン・ロー(英米法)諸国で運用されている。
    陪審員は、現在の日本に於ける裁判員にあたる。
    日本でも、1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)まで行われていた。
     
    構成
    陪審には、刑事事件で被疑者を起訴するか否かを陪審員が決定する大陪審(だいばいしん、grand jury、起訴陪審とも)と、陪審員が刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加する小陪審(しょうばいしん、petit jury、審理陪審とも)がある。
    大陪審・小陪審の名称は、大陪審の方が小陪審よりも構成人数が多いことによる(伝統的に、大陪審は23人、小陪審は12人)。
    一般に陪審という場合は小陪審のことを指す(以下、#歴史の項を除いては、小陪審のみについて記述する)。
    陪審員(上記のとおり伝統的には12人だが詳細は各国の項参照)は、一般市民から無作為で選ばれ、刑事事件や民事事件の審理に立ち会った後、陪審員のみで評議を行い、結論である評決を下す(→#一般的な陪審審理の手続及び各国の項参照)。
    同様に一般市民が裁判に参加する制度として、参審制や、日本で実施予定の裁判員制度があるが、陪審制は、裁判官が評議に加わらず、陪審員のみで事実認定と法の適用を行う点でこれらと異なる(→#類似の制度)。
    陪審制は、英国で古くから発展し、米国等に受け継がれたものである(→#歴史)。
    アメリカでは、連邦や各州の憲法で刑事陪審及び民事陪審が保障されており(→#アメリカの刑事陪審、#アメリカの民事陪審)、全事件数から見れば一部であるとはいえ、年に9万件以上の陪審審理が行われている(→#統計)。
    イギリスでも、刑事陪審が行われているが、現在、民事陪審はほとんど行われていない(→#イギリスの陪審制)。
    その他、オーストラリア、カナダ、韓国、デンマーク、ニュージーランド、ロシア等で陪審制が行われている(→#その他の国における現行の陪審制)。
    日本でも戦前、1928年(昭和3年)から刑事陪審が実施されたが、1943年(昭和18年)に施行停止されたまま現在に至っている(→#日本の陪審制)。


    審理手続

    審理手続
    「トライアル (裁判)」も参照
    現在陪審制が実施されている主な国であるアメリカ(連邦、各州)及びイギリス(イングランド、ウェールズ)における一般的な陪審審理の手続は、以下のとおりである。
    陪審員の数は、伝統的には12人であるが、法域(国や州)によって、これより少ない人数としているところもある。
    陪審員は、一般市民の中から無作為で選任され、宣誓の後、法廷の中に設けられた陪審員席に着席して審理(トライアル)に立ち会う。
    陪審員の参加する審理においては、裁判官は法廷を主催して訴訟指揮(異議の裁定など)を行い、陪審員が偏見を与えられたり、不適切な証拠が法廷に持ち込まれたりすることを防ぐ。
    そして、裁判官は、審理が終わった段階で、陪審員に、どのような法が適用されるべきかという詳細な説示 (instruction, charge) を行う。
    陪審は、法廷に提出された証拠と、裁判官の説示を踏まえ、事実認定とその事実に対する法の適用の双方について密室で評議した上で、評決 (verdict) を答申する。
    民事陪審では、例えば被告の責任の有無だけでなく損害賠償額についても評決を答申する。
    刑事事件では、陪審が有罪・無罪を答申し、有罪の場合の量刑については裁判官が決定するのが原則である。
    評決は、伝統的に全員一致であることが必要であるが、現在では、法域によって特別多数決(11対1や10対2など)を認めるところもある。
    陪審員の意見が分かれ、全員一致や特別多数決の条件を満たさない場合は評決不能 (hung jury) となり、新たな陪審の選任から裁判をすべてやり直す必要がある法域が多い。
    評決が出た場合、裁判官は、その評決に従って判決を下す。
    ただし、陪審員の判断が証拠を無視した著しく不適切なものであると判断したときに、裁判官が、陪審員の判断によらず判決を下すことができる場合がある(後述#アメリカの民事陪審における「法律問題としての判決」など)。


    類似の制度
    類似の制度
    参審制
    陪審員だけが事実認定を行う陪審制と異なり、職業裁判官と一般市民(参審員)がともに審理・評議を行う制度を参審制(さんしんせい)と呼ぶ。
    以下に挙げるようなヨーロッパの国々で採用されている。
    参審員は、事件ごとに選ばれる陪審員と異なり、任期制である。
    ドイツでは、原則としてすべての刑事事件について、5年間の任期で市民の中から選任された参審員と職業裁判官(地方裁判所では参審員2名と裁判官3名、区裁判所では参審員2名と裁判官1名)が共に評議し、有罪・無罪の判断及び量刑の双方について判断する。
    フランスの重罪院 (Cour d'assises) では、陪審員9人(控訴審では12人)が職業裁判官3人とともに審理する制度が採用されている。
    フランスでは「陪審制」(Jury) と呼ばれているが、制度の実質は参審制である。
    イタリアでは、一定の重大犯罪について、3か月間の任期で選ばれた参審員6名と職業裁判官2名が共に評議し、有罪・無罪及び量刑の双方について判断する。
     
    裁判員制度
    日本で2009年(平成21年)5月21日から施行される裁判員制度は、原則として一般市民から選ばれた裁判員6名と職業裁判官3名による合議体により、一定の重大な刑事事件の審理を行い、事実認定及び量刑を判断するものであり、参審制に近い制度である。
    ただし、裁判員が事件ごとに選ばれる点では参審制と異なる。
       

    イギリスにおける生成・発展
    歴史
    イギリスにおける生成・発展
    陪審の起源は、少なくとも9世紀初頭のフランク王国で、国王の権利を確認するために地域の重要な者に証言させた制度 (Frankish Inquest) に遡ることができる。
    カール大帝の息子、ルートヴィヒ1世が、829年に、国王の権利について判断する際、その地方で最も優れた、最も信頼できる人物12人に宣誓の上陳述させるという制度を設けた。
    この制度がノルマン・コンクエスト(11世紀)を経てイングランドに伝えられたとされる。
    なお、こうして大陸からもたらされた制度とは別に、997年ころアングロ・サクソンの王エゼルレッド2世が、12人の騎士に、聖物に対して「いかなる無実の者も訴追することなく、いかなる有罪の者を隠すことはない」との宣誓をさせることとした法律にも、陪審の一つの起源を遡ることができるという説がある。
    いずれにしても、現代の陪審制の形成については、12世紀のイングランド王ヘンリー2世の設けた制度と、1215年のマグナ・カルタが大きく寄与したという点で多くの歴史家が一致している。
    ヘンリー2世は、司法制度に対する国王の支配を及ぼすために陪審を利用したと言われる。
    ヘンリー2世は、土地と相続の争いを解決するためにアサイズ (assize) という訴訟類型を設けた。
    そこでは、12人の自由かつ法律上の資格のある男性12人が集められ、宣誓の下、誰が真の所有者ないし相続人であるかについて自らの知識を述べた。
    これは今日の民事陪審の原型といえる。
    ヘンリー2世は、刑事裁判でも、1166年のクラレンドン勅令において、後の大陪審に当たる訴追陪審を創設し、法律上の資格のある男たちに、宣誓の下、犯罪について疑わしい人物を誰か知らないか報告させた。
    当時、こうして訴追された者は神明裁判にかけられていた。

    出会い系
    1215年のマグナ・カルタでは、同輩から成る陪審の判決によるのでなければ処罰されないという権利が宣言された(39条)。
    これは、貴族が王権を制限するためにジョン王に認めさせたものであった。
    同じ年、第4ラテラン公会議で、教皇インノケンティウス3世が、聖職者の神明裁判への参加を禁じたことにより、神明裁判を行うことが難しくなったこともあって、それに代わるものとして陪審による審理が広がっていった。
    そのころの陪審の役割は、まだ、証人として自らの知識を述べるというものであった。
    証拠に基づいて事実認定を行うという現代的役割を担うようになったのは、14世紀ないし15世紀になってからである。
    もっとも、その後も、17世紀ころまでは、陪審員は法廷に現れた証拠のほかに個人的な知識に基づいて評決を下すことができ、その点で中立性は強く要求されていなかった。
    また、初期の陪審制においては、陪審員が、有罪評決を答申するまで監禁されるということも行われていた。
    星室裁判所では、有罪評決を出すことを拒んだ陪審員に対し、土地や財産を没収して処罰したことが知られている。
    このような伝統からの転換点となったのが、1670年のブシェル事件 (Bushel's Case) であった。
    クエーカーであったウィリアム・ペンとウィリアム・ミードが集会煽動罪で訴追された際、有罪評決を出すことを拒んだ12人の陪審員は、食べ物や水も与えられずに2晩監禁され、それでも無罪評決を撤回しなかったため、罰金を納めるまでの間懲役刑に処せられた。
    ブシェルをはじめとする4人の陪審員は罰金を納めることを拒否し、ヘイビアス・コーパスの訴えを提起したところ、高等法院王座部の首席判事は、陪審は事実の認定について他からの干渉を受けないという画期的な判断をしてブシェルらを釈放した。
    こうして、17世紀ころには、陪審は被告人にとって、苛酷な刑罰からの防護壁という重要な位置付けを与えられるようになった。
    古くからのイングランドの刑罰は、重罪事件で有罪になればほとんどが死刑に処せられていたが、中世から18世紀にかけての裁判記録には、陪審員が多くの重罪事件の被告人を無罪としたり、烙印や鞭打ち程度で済む、より軽い罪としたりしたことが記されている。
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